先生は教科書を理解しているのか?

教科書を理解する」とはどういうことか?

どういう状態なら「教科書を理解している」といえるのか?

──という話を、娘とした。

 

テストで点を取れれば「理解した」とみなしていいのか?しかし、「はじき」「くもわ」で点を取ったとしても、理解しているとはいえないことぐらい、娘が一番よく理解している。

 

パパの考えでは、自分で教科書を書いて、人に授業をできるようになったら、「理解している」と言っていいんじゃないかな。と言っておいた。例えば、人に教えれば理解が深まると昔から言うし、学校でも好きな先生はみんなそうやって自分の頭の中を黒板に再現し、自分の理解を語ってくれた。それに、大学の数学や物理の教科書は、問題の答えを出せるだけじゃなくて、自分で教科書の論理展開ストーリーをノート上に再現できて初めて「理解した」といえるんだよ。これには娘も賛同してくれた。

 

ところが、娘の話によると、小学校では、先生の机に「先生用の教科書」が無造作に置いてあって、中をみたら「教科書の縮小版の周りに線がたくさん引いてあって、『ここはこう教える』『この問題の答えはこう』ってみんな書いてあった」という。これがいわゆる「教師用指導書」だろう。先生は時々チラッチラッとそれをみながら、黒板に板書して、話をするらしい。その先生用の教科書をみたときどう思った?と聞いたら、「うん『先生だけズルい』と思った」。1年生のときからずっとそうらしい。

 

さらに娘の小学校では、黒板に書いてあることは、一言一句、レイアウトもそのままで、自分のノートに書き写さねばならないという決まりがあるそうだ。黒板にないことを書き留めると叱られる。初耳だ。

そういえば一時期、適応指導教室に通っていたころ、校長先生あがりの年配の先生に「じゃあ教科書をまとめてごらん」と言われて、「まとめる」という言葉の意味がわからずに、「まとめるって何ですか?」と質問して驚かれたと言っていた。その先生も、いざ「〈まとめる〉とは何か?」などという語用論的な問いを突きつけられて、さぞ面食らったことだろう。

そう、娘の小学校では、黒板をみながら、先生の話を聞きながら、自分で考えて、ノートにまとめるという指導がなされていない。それは、禁じられた行為なのだ。ノートは、まとめてはいけないのだ。

 

 

ノートに、キーワードを書き留め、ダイヤグラムや表でキーワード間の関連を視覚化し、重要事項を文章化してまとめる──これは学習の基礎であり、ライティングの基礎であり、思考の基礎でもある。こうしたトレーニングを積み重ねて、人は自分の考えを組み立て、意見を言葉に出して表明できるようになっていく。

この行為が禁じられているとしたら、それは思考を停止させられているということだ。こうした「学習」は心理学におけるパブロフのイヌの実験に代表される類の「学習」だ。児童は先生の言うとおりに、先生も先生用の教科書の言うとおりに、「学習」を毎日繰り返しているのだろうか。

 

このとき、先生は教科書を、国語を、算数を、理解しているといえるのだろうか?少なくとも、われわれ一般社会における日常語の運用レベルでは、「理解している」という表現は適切でないだろう。

 

あるいは、教室における「学習」や「理解」という行為について、われわれ一般の認識が間違っているのだとすれば、いっそのこと「写経」と呼んでみるのはどうだろう。先生が板書する一字一字には実は仏さまが宿っていて、だからこそ一言一句、レイアウトもフォントも崩してはならず、トメ・ハネ・ハライのみならず、スペースにすら「空」の一念を込めて写しとるなかに、来世に仏となって極楽浄土に生まれ変わる功徳を頂けるのかもしれない。すなわち、先生も生徒も教科書の「理解」ではなく、経典に示された「悟り」の境地を目指して、ともに「一字一仏」の修行に励んでいるのだ。

 

こうして、脱「ゆとり」教育の真の目的が明らかになった。「さとり」世代の育成である。

 

もっとも、もう一年以上、娘は学校に通っていないが。その理由の一端が、また明らかになった。