なぜ数学の定期試験なのに「法則の名称」を出題するのか?──観点別評価の帰結

問 ( a (x + y) = ax + by ) であるとき、この法則を何というか。
解 分配法則

 数学的な思考能力とその到達度を評価するはずの「数学の」定期試験なのに、「法則の名称」を答えさせる問題が出されるというのは、かなり困った事態なのではないかと思うのであります。しかも漢字で書かないと減点、さらに授業で教わったとおりの名称でない「分配則」「カッコをバラしても同じの法則」などの解答も減点という縛りまでついてくるとなると、もはや漢字検定なのか数学検定なのか判別不能です。

このように「問題」とその「正解」という「一問一答」をマッチングさせる百人一首大会のような出題は、計算問題でも証明問題でもなければ、空間認識とも数量概念とも全く無関係であり、何をどう評価しようとしているのかさっぱり意味が分からない試験だったわけで、小学校から大学の学部まで長いこと数学の試験を受けて来た身としても完全に初見なのでありました。

ところが、上記のツイートに対して多く寄せられた驚きの声に紛れて、「え、普通だと思ってました」というリプが、若い世代を中心に複数あったのも事実です。また、中学生・高校生の子を持つ親御さんからの報告によれば、傾向として特に地方の公立中に多く見られるようでもあります。

 

いったい、いつからどうしてこんなことになってしまったんでしょうか。*1

 

 

 

低位のできない生徒の救済措置?

 用語問題は数学が苦手な生徒に少しでも点を取らせるために出題しているのでは?

という意見もいくつかありました。 (3 ( x + y )) に ( 3x + 3y ) と回答できない生徒でも、「分配法則」という名前なら覚えているだろう、真面目に授業を聞いていれば、板書をしっかりノートにとって試験前に教科書を見返してたら書けるだろう、という慈悲の心が働いているというのです。

しかし、数学の苦手な子でも、(3 × (7 + 5) = 21 + 15 = 36) という小学校の算数なら筆算せずに解けるかもしれません。これも立派な分配法則を使った計算ですよね。

 

つまり、たとえ低位とされる子に対しても、難易度を変えた問題や以前の学年の範囲から出題したりすればよいわけです。それを数学の試験であるにもかかわらず漢字の書き取りを要求するようでは、数学という教科の成績評価としては参考になりません。

そもそも、勉強が苦手な子・できない子を、「頑張っているから」という理由で成績を塩梅して付けるという措置は、自己肯定感を一時的に削がずに済む反面、勉強が苦手な子のできない状態を公然と放置している、とも言えます。学力を救済するのではなく、見かけ上の評価を取り繕うようでは、本人も将来的に不利益を被りますし、ゆくゆくは国益をも損ねます。

また、うちの娘のようにディスグラフィア(書字障害)の生徒は特に漢字を書くことに困難を抱えていますので、こうした生徒は用語問題では救済どころかむしろ追い込まれてしまいます。

 

知識理解

 

救済措置の是非は別として、「なぜ出題されるのか?」という問いに対する手掛かりになったのが、【知識・理解】というキーワードです。これは上記の画像にもみられますし、うちの娘が持ち帰ってきた試験問題にも確認しました。

現在、中学校の定期試験の出題や調査書の評定は、ほぼ全ての教科で「知識・理解」「技能」「思考・判断・表現」「関心・意欲・態度」の観点別に評価するべきとされています。「法則の名称」を出題することで「知識・理解」の到達度を評価しよう、という意図なのかもしれません。

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出典:「学習評価に関する資料」文部科学省、総則・評価特別部会、資料6-2(平成28年1月18日)p. 11。

しかしながら、数学という教科の学習は、このような学力要素に分類できる営みなのでなのしょうか。いろいろな立場があり得るとは思いますが、少なくとも「分配法則」だろうが「カッコをバラす」だろうがとにかく ( 6(2x - 1) + (9x + 3)  ) から ( 21x -3 )を求めることが可能であることからしても、「法則の名称」に関する「知識」が、数学を構成する本質的な要素でないことだけは明らかです。

むしろ具体的な名称を知らなくとも、抽象概念を理解し操作することは可能ですし、それこが数学的思考力の核心であり、またそれだけに尽きるとも言えます。

 出題とは、「こういう勉強をしておけ」「こういう能力を期待する」という、先生から生徒へのメッセージでもあります。数学用語を漢字で答えさせる問題を出題すれば、生徒が法則名を暗記するような対策を立てるであろうことは容易に想像できます。

 

観点別評価の弊害

観点別評価の基準には、「知識・理解」の他に「関心・意欲・態度」という要素も定められています。数学に限らず、各教科の学習対象に関心を寄せ、学習への意欲を持つことは重要なことです。関心や意欲が高く、模範的な態度の生徒にがいたら、先生方もどんどん褒めてあげてほしいものです。

ところが、今の学校では「関心・意欲・態度」を

  1. 十分満足できる
  2. おおむね満足できる
  3. 努力を要する

の三段階で評価します。これらは最終的に4つの観点について集計され、その平均点が調査書に5段階で表記されます。

しかしここでも、一つの大きな疑問が浮かびます。はたして関心や意欲という内面的な心の働きは、点数化して通知表に評定をつける類の評価対象なのでしょうか。公立高校の合否判定にも使われるという生殺与奪の権を振るわなければ、伸ばし高めることはできないものでしょうか。

ましてや「態度」など、教師との相性や主観もあるでしょうし、それすらも点数化されるとなれば結果的に子どもの「面従腹背」を招くことぐらい、ちょっと考えれば分かるようなものだと思うのですが。あ、それ文科省では美徳とされてるんでしたっけ。

面従腹背

面従腹背

 

 

いつからこうなった?

文部科学省中教審がまとめてくれているポンチ絵によれば、どうやら観点別に学習状況を評価するようになったのは、昭和53年に改定され昭和56年度から中学校で実施された学習指導要領のようです。このときから、「関心・態度」の観点が追加されています。

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昭和56年といえば校内暴力と暴走族が社会問題になった少し後、「なめ猫」と横浜銀蠅に象徴されるツッパリ文化が盛り上がり、聖子ちゃんが歌手デビューした翌年ですね。

そして乱暴者といわれる男の子たちも、この方を見ると本当に優しい気持ちになるんです。(黒柳徹子
松田聖子 夏の扉 - ニコニコ動画

 

ただし、観点別評価の基準が現在のように事細かに例示され、特に数学において、概念の理解だけでなく「知識の習得」が明記されたのは、平成14年(2002年)の国立教育政策研究所評価規準の作成,評価方法の工夫改善のための参考資料(中学校)─評価規準,評価方法等の研究開発(報告)─』からです。いわば、成績評価がマニュアル化された際に、「知識を身に付けている」「知識の習得」が評価基準に盛り込まれてしまったのです。

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出典:「学習評価に関する資料文部科学省中央教育審議会、教育課程部会(第103回)資料5-2(平成29年7月18日)

 

 

この評価基準の細かな例示は現行の『評価規準の作成、評価方法等の工夫改善のための参考資料(PDF)』にも受け継がれており、だいたいここら辺が数学用語のかるた取り的ションベン暗記が蔓延する契機になったと考えられます。詳しくはぜひ本文を参照して頂きたいのですが、私など「こんなもん、テストの点数でざっくり5段階の成績つけりゃいいだけじゃん」などと考えてしまうところを、単元・項目ごとに目眩がするほど手取り足取り具体的に、実に数十ページに渡って詳細に記載されています。

なお、この検討に関与した委員の名簿も公開されており、そこには下記の先生方のご芳名が確認できました。大学の教官は一名のみということで、中学校の現場の声がよく反映されていたようです。とても親切な先生方ですね! 

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まあ結果として大学の数学科で研究してるその道のプロと思しきお父さんでも悲鳴をあげるほどの難易度の数学教育が全国の公立中でも実施されるようになったわけで、ここへきて脱ゆとり教育の揺り戻し効果もいよいよ本格的に作動するに及び、次世代を担う若者たちの数学リテラシーPISAランキングで上位に君臨するレベルで高止まりすることでしょう。いやあ日本の未来は明るいですね。

 

 

 





 

*1:こちらの記事は下記のまとめに収載した皆様との意見交換を基に執筆させて頂きました。この場を借りて御礼申し上げます:公立中学校の数学の中間テストで「法則の名前」を答えさせる問題が出題される - Togetter