「学校が死ぬほどつらい子は、いらっしゃい」のニュースに心温まるだけでよいのか?

ホームエデュケーションは、果たして本当に「逃げてもいい」の出口戦略たりうるのか?

前回の記事では、「外野から"逃げてもいい"と呼びかけるのはいいが、その先の責任は誰が取るのか」という問いを立て、もはや国レベルでは不登校は就学義務違反や問題行動とはみなされないことを、学校教育基法、教育機会確保法の制定、過去の判例、および文科省の通知を根拠に論じました。その上で、死ぬほど学校がつらいなら「ホームエデュケーション」として自宅その他で勉強するのも一つの選択肢であり、図書館を拠点とする「ライブラリ・スクーリング」を宣言した我が家の事例を紹介しました。

insects.hateblo.jp

9月に入り、今学期も順調にスタートした……かに思えました。

ところが、しばらくして事態は急転。ある朝「さあ今日も娘と図書館へ出かけよう」という矢先、突然アナフィラキシー・ショック様症状が増悪し、激しい嘔気でトイレに駆け込んだところまでは意識があるのですが、気がつくと「1、2の、3!」で救急隊員に搬送されている自分がいました。幸い、その日のうちに退院できたものの、医師によると「心因性のストレス反応」的な診断。「なにか心当たりがありますか?」と、聞かれましても、自分では何が何だか訳がわかりません。以来、今日に至るまで原因不明の体調不良が不気味に続いています。

 

そんな出来事と前後するように、Twitterでこんなツイートが流れてきました。

 「逃げてもいい」と呼びかけた身として一瞬ドキッとしたのですが、すぐに趣旨は理解できました。確かに一次避難先として図書館や動物園は大いに活用できるのですが、あくまで緊急措置です。長引く避難生活は、精神的にも身体的にも、確実に避難家族を疲弊させます。例えば、離婚を経験されて、片親で働きながら不登校児童を育てていらっしゃるご家庭などでは、不登校児の対応は一筋縄には行かず、なかなかに大変のようです。

一方、あるご家庭は、自営業の傍ら、ホームエデュケーションを実践しておられます。また、我が家の知人宅は、旦那さんが外資系企業の社員で、奥さんは専業主婦です。その他、何軒か成功事例を伺いましたが、私の観測範囲では母親が自営業もしくは専業主婦というケースでした。

我が家はといえば、世を挙げての「働き方改革」の追い風に乗り在宅勤務になったおかげで、父親である私が業務の傍ら何とか娘のホームエデュケーションを並行していますが、さすがにまだレアケースだと思われます。加えて、自閉症スペクトラムの妻は、ただでさえ家事もままならない上にPTA役員に欠席裁判で選出されてしまい、そちらの不安で脳内メモリは使い果たしています。その他の通級指導校との連絡・送迎、放課後登校の付き添い、在籍校の担任の先生・校長・副校長先生、教育相談室、児童精神科主治医、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカーとの報・連・相などは私が一手に引き受けて来ましたが、若さゆえの体力は残ってないので無理も効きません。認めたくないものですが、おそらくこうした蓄積疲労が、ストレス反応として吹き出し、先日の救急搬送に繋がってしまったのでしょう。

つまり、ホームエデュケーションが成功する条件として、専業主婦でも回るくらいの父親の所得や資産、あるいは母親が在宅勤務や自営業で時間的な融通が利くこと、そして何より両親が健康であること、こうした幾つかの条件が必須です。したがって、現時点でホームエデュケーションは、経済的・社会的な余裕がない場合、家庭に多大な負担を強いるという意味で、不登校の根本的な解決策にはなり得ないと考えるに至りました。なかなか回復しない自分の体調を思うにつけ、このことを痛感させられる毎日です。

 

報道機関の責任は?

こうした視点に立って、今年の8月末の各種報道機関の論調を振り返ってみるとき、「学校が死ぬほどつらい子は、いらっしゃい」とする呼びかけをエンディングテーマ曲にのせて心温まるニュースとして報じたり、「動物園のツイートに賞賛の声」などと伝えたりするだけで終わらせていいのか?という違和感が、半ば怒りの感情をともなう疑問として、湧き上がってきました。

web.archive.org

本来、報道機関の役割は、「(9月1日に限らず)何故こんなにも自殺する児童生徒が多いのか?」「なぜ十万人以上の不登校が発生しているのか?」その原因を分析し、責任の所在を明確にし、追求することにあるはずです。にも関わらず、なぜ報道機関は、子どもたちの側に呼びかけるだけで終わらせてしまうのでしょうか。

もしかすると、例えば皆さまの受信料で支えられている放送局や、都心の一等地に固定資産を構えるマスコミ各社などにお勤めの方々にとって、たとえ子どもが学校から逃げて長期不登校になったとしても、図書館や動物園や鉄道博物館などに足繁く付き添うことのできる専業主婦が妻としていらっしゃったり、放課後デイサービスやフリースクールに通わせられるだけの経済力があったり(料金結構高い)、そもそもリベラルな校風の私学にお受験して、先生方もてんてこ舞いの公立学校とは無縁の世界に暮らしておられるのかもしれません。ですから、学校から逃げた先に待ち構える本当の困難など、彼らの想像の域を超えているのだろう、とヤサグレてしまいたくもなります。

ところが、この社会的な当事者意識の希薄さは、議論の出発点として広く参照されているデータそのものに根本的な欠陥があるのではないか?──そう考えざるを得ない現状を垣間見る機会がありました。

 

はたして文科省や学校の先生方は、現状を正確に把握しているのか?

ところで、全国で十万以上とされる不登校の、主な原因は何なのでしょう。ある現役の先生は、こんな調査結果を紹介しておられました。

 これは文部科学省「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」(平成26年度)に基づくデータです。(図は内閣府「平成28年版 子供・若者白書」(第3章、第2節)WEBサイトから?)なるほど、不登校になったきっかけと考えられる状況は「いじめ」が1.1%、「教職員との関係」は1.9%となっており、全体としては微々たる割合であることが伺えます。しかし、実際に不登校の子を持つ親御さんに聞くと「まったく実感と異なる」との意見が返ってきます。この調査は、本当に全国の不登校で悩む児童・生徒、そして親御さんの現状を、正確に捕捉できているのでしょうか。疑問に思ったので、報告書をダウンロードして調査方法などを調べようとしたところ、なんと統計学的な詳細に関しては何の記載もなく、調査対象も不登校の子ども本人でも保護者でもなく、学校の先生方を対象に各教育委員会が取りまとめて文科省が集計したものだというのです。(学校調査)

これには驚きました。会社でいえば取締役会ともいうべき文科省から調査されて、従業員である先生が、生徒の不登校の原因として、わざわざ自分の人事査定に響きかねない「いじめ」や「教員との関係」を回答するでしょうか。第三者とは程遠い、教育委員会文科省と学校の先生という、ダイレクトな利害当事者同士による調査は、間違っても客観的な統計とはいえません。ただ、確実に言えることは、「学校の先生方が、文科省教育委員会に対して、そのように回答している(せざるを得ない)」という現実のみです。

一方、教育社会学者の内田良氏の指摘によれば、文科省にはもう一つ、不登校について、別の調査結果が存在するそうです。こちらは平成26年「不登校に関する実態調査」として公表されたもので、平成18年当時に不登校であった本人に対し、5年後の状況などを追跡調査したものです。その数、アンケート回答者1,604人、インタビュー回答者379人という大規模な調査です。こちらは同じ文科省でも、「不登校生徒に関する追跡調査研究会」によって調査されました。(本人調査)

news.yahoo.co.jp

注目すべきは、この本人調査の結果が、先に掲げた学校調査の傾向と、大きく異なっている点です。とりわけ「教師との関係」に至っては、学校調査の1.9%に対し、本人調査では実に26.6%にも上ります。また友人関係・いじめについても、調査項目が異なるため単純比較はできませんが、やはり両調査結果は総合すると大きく矛盾します。

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問題は、「不登校の原因」として多くの文献や報道、巷で流布されている情報のほとんどが、文科省の学校調査を根拠にしているという現状です。試みに「不登校 原因 統計」をキーワードにGoogleで検索をかけてみると、その現状がよくお分かりいただけることでしょう。これでは、各報道機関が、不登校の本人にむけて呼びかけるだけで終わるのも残念ながら納得できます。少なくとも一般的には「不登校の原因は本人と親にある」という認識になっているのですから。先にツイートしていた先生の現状認識も、教師として極めて一般的な意識なのかもしれません。

であるならば、文科省の学校向け調査の現状の公表方法は、不登校の原因についての社会と教員の認識を歪めている点で、端的に申し上げて有害です。学校調査が客観性を欠くものであること、本人を対象とする別途調査が存在することを強調して、学校と社会に対し早急に周知する責任が、文部科学省にあります。そして何より、(放課後登校など温情としてカウントされる出席日数を除外しても)毎年十万人以上の不登校者と、多くの自殺者を出している学校制度そのものを、客観的な根拠(エビデンス)に基づいて根本的に見直すべき責任が、政府にあります。そして報道機関には、こうした責任を、客観的なエビデンスに基づいて追求してほしいものです。