小包中納言物語 - AS Loves Insects -

2Eギフテッドな蟲愛づる娘のホームエデュケーション

僕らの名前を覚えてほしい「はじき」を知らない子供達さ

分かる人には分かる、分からない人には何のことかさっぱり分からないタイトルをつけてしまった前回の記事の続きです。

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普段からこうしてブログやTwitterなどで

【「くもわ」や「はじき」を使わずに教えて下さい】

と訴えていますが、

「くもわ」も「はじき」も使わないで、どうやって教えろと言うんですか? 

という返信も頂くのも事実です。

 

「どうやって?」と言われましても、「普通に教えて下さい」としか答えようがないのですが、もはや「くもわ」や「はじき」がデファクト・スタンダードとして算数教育会に定着しつつあるのかもしれません。「普通に」が「はじき」になってしまう時代です。

 

かくいう私も、速さと距離と時間の関係については、

定義により「速さ=距離/時間」なのだから、それぞれ移項して求めれば一発じゃん

ぐらいにしか考えてませんでした。

 

ところが、ハコフグさんにこと積分定数@sekibunnteisuu さんから次のようなご指摘を頂きました。

 

盲点でした。

問題はもっとシンプルなようです。わざわざ「速さの定義」などという物理的な概念を持ち出さなくとも、小学校中学年の基礎的な算数で解決するというのです。

 

さらに、東北大の黒木さんからの過去ツイには推薦図書が。

その「はじき」に代わるべき本来の「普通」の「速さ」の教え方を、どう言語化しているのか。私も手にとって確認してみることにしました。

 

 はじき図は「ダメ、消しなさい」

著者の見尾三保子氏の主張は一貫しています。

 

「意味を考えない」で「やり方を覚える学習」を偏重する教育では、学校の定期テストはできても、理解してないから身につかない。テストが終われば忘れてしまうから、入試でも歯が立たない。

 

ですから、中学生が「速さ」を扱う問題で機械的に「はじき図」を描き始めると、

「ダメ、消しなさい」

と消させるそうです。理由は「便利な図も、頼ると基本のイロハを素通りしてしまう」から。

 

そして学年混成クラスで小3の生徒に質問します。

20km離れたところまで1時間に4kmずつの割合の速さで歩いていくと、何時間で着くかな?

これには、小3の子どもでも暗算で「5時間」と答えるそうです。

 

一度、「速さ」=「距離」/「時間」の公式を習ってしまったら、ましてやましてや v = Δr / Δt などと頭に刷り込まれてしまった私のような人間からすると、小3の子どもが速さの問題を暗算で答えてしまうことに、一瞬驚いてしまいます。

 

しかし、何のことはない、彼らの頭のなかでは、例えば「4を5回繰り返せば20になるな」とか、「1時間に4kmだから20kmになるには4×5=20で5時間必要だな」ぐらいのことを考えているに過ぎません。

 

これが、先に引用した積分定数さんのツイートの意図するところでしょう。「やり方」を覚えなくとも、「比」や「割合」という非常に初歩的ではあるものの立派な「論理」を用いれば、速さという概念の意味を理解することは可能なのです。

 

本書では、「速さ」の単元に限らず、小学校の算数から中学・高校の数学まで、いや、数学に限らず英語も、古典も、現代文に対しても、著者の考えは一貫しています。

 

 

「やり方を覚えるだけの学習」に対し、「基本の意味を理解」したことは忘れない。「基本の意味を理解する」とは「基本を論理的に理解する」ということ。「難問なんてないのよ。みんな基本のイロハの組み合わせなのよ」と。

 

私はこれまで、子どもの認知特性に応じて、教育アプローチというものは複数あるべきだと考えてきました。 

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しかし著者は、8種の多元的知能や、3種の学習チャンネルなどといった方法論より、もっと深いレベルで、子どもにとって「学ぶ」とは何か?という普遍的な問いを投げかけているように思われます。

 

 

さらに著者の基本姿勢は、何も教科の学習だけに留まりません。

 

文中、明らかに発達障害とおぼしき生徒のエピソードや、第6章では「私の出会った不登校児たち」と題して、一章を割いています。

こういう子は、言ってみればあまりにも「まっとうな人間」なのである。私の接した不登校児は多くが「まっとうな人間」、あるいは「まっとうすぎる人間」のように思える。

著者からみて「まっとうな人間」がストレスで押しつぶされ、基本の意味を論理的に理解しようとする子どもほど混乱を来す現在の教育システム。こうした「形よければすべてよし」の教育では、「学習にとどまらず、人生を自分の力で生きていこうという活力」を育てることにはならない、と訴えます。

自分で望んだわけでもないのにこの世に生まれてきた子どもが、長い人生を生き抜いて行けるように育てることこそ、いちばん大事なのであるが、(略)明日のテスト、学期の成績など、目先のことに一喜一憂して、長いスパンで見ることができない。

たかが「はじき図」ですが、そこには、その教師の、その教材の開発者の、一つの教育哲学が確かに顕在すると私は考えます。

 

 

子どもはいつか、親の手を離れて生きて行きます。

不登校であったり、引きこもりであったり、発達障害を持っていたりする子どもも、いつかは親の手を離れて、自分の力で生きて行かざるを得ません。

著者はその日のことを見据えています。

理解することは発見であり、発見は感動をともない、感動はさらなる意欲へとつながる。こうして子どもは自分で自分を教育していく。つまり「自己教育」こそが学習の本質であり… 

 

久しぶりに骨のある教育論に出会いました。